健康マニアへの道 

自己紹介
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健康マニア歴40年超の自称健康マニア・オタクニストのかなみです。

人生100年時代がきましたが、健康なまま、最後を迎える方の数は年々減少傾向にあると言われています。寿命は伸びても健康寿命は減っていってる現状。

100歳でも自分で食べて、自分で歩いて、自分の目と耳でものを聞いて、元気なばあちゃんだったところっと逝くことを目標にしています。

自分では気づいてなかったのですが、かなり健康に対してストイックにしていたことにアラフィフになってようやく気がつきました。

そのおかげか・・幼少期からの虚弱体質、アレルギーマーチは40歳の声が聞こえた頃には、お薬がなくてもお付き合いができるほどに改善しています。
 
自分がひどいアレルギーだったので、子供たちにも出ちゃうんじゃないかとビクビクしながら暮らしていましたが、二人の子供も季節性のアレルギー性鼻炎と思春期ニキビくらいで日々を平和に過ごしています。

ちびさくらちゃん
ちびかなみちゃん

かなみちゃん。そもそもなんで健康オタクの世界へ足を突っ込んだの?

さくら
かなみ

うーん。きっと赤ちゃんの頃から始まっていたんだよね。


ここでかなみが健康オタクの世界へとどっぷり足を突っ込んでいった経緯についてちょとお話ししていきます。長くなりますが気になる方はお付き合いくださいね。


 

母乳育児って何ですか?米のとぎ汁で育った幼少期の話。 

時は高度経済成長期。かなみ父は類にもれず、ジャパニーズビジネスマンの鏡のような存在でして、かなみが生まれてすぐ、日本に復帰してまだ数年足らずの沖縄の地へと赴任していきます。
かなみも母親に連れられて、生後3ヶ月から沖縄での生活が始まります。

ちびさくらちゃん
ちびかなみちゃん
 

いいなー沖縄。憧れるー。

さくら
かなみ
 

それがさ、一欠片も記憶にないんだよ。あるのは攻めたビキニを着てにっこり笑顔の海辺の写真。もう残念の極み。

3歳になる前に沖縄から兵庫へと転居したので、記憶には全くないので、ここからは母が伝えてくれた話になります。

母乳育児、ミルク育児論争が今も各所で盛り上がっておりますが、わたし自身はなんと「米のとぎ汁」で育てられました。

というのも、環境の変化で母の母乳が止まってしまったんです。当時の沖縄はまだアメリカ色が強くて、習慣も風習も言葉も違う中で本土の人間が赤ちゃんを連れて移住するのはどれほどの苦労があったかと、心が痛みます。

そしたら粉ミルクがあるやん。粉ミルクで育てたらとお思いでしょう。ですが・・・ですがですよ。奥さん。当時からめちゃくちゃ味にうるさく頑固だったかなみは、粉ミルクを一切拒否。わずか3ヶ月にして空腹でも粉ミルクを拒否するという暴挙に出たのです。

ちびさくらちゃん
ちびかなみちゃん
 

どんだけ頑固なんよ!

困り果てた母は近所に住む、島のおばあからこんなアドバイスをいただきます。

「米のとぎ汁を飲ませなさい」

八方塞がりの母はおばあのアドバイスを受けて、米のとぎ汁を与えたところ、ようやくミルクがわりに米のとぎ汁を口にしてくれた。と懐かしそうに話してくれました。

だからね、思うんです。母乳じゃなくてもミルクじゃなくても大丈夫。わたし50歳まで、死に直面する病気にならず生きてます!って声を大にして言えます。
 
それでも、やっぱり体はちょっと弱くて、2歳頃には救急車のおじちゃんと顔見知りになって、お互い名前を覚えるほどの常連になってました。原因は熱性痙攣。この頃から、反応しやすい体になっていたのだな。と今思えば感じてます。
 

沖縄から兵庫へ 野菜嫌いの幼少期 

そんなこんなで、3歳になる前に、父の転勤で兵庫に戻ります。その頃から、苦味の強いものが大嫌いで、お魚ばっかり食べてました。家にいる時はそれでもいいんですけど、幼稚園ではそうもいかず、よく園バスが出発するギリギリまでご飯を食べさせられていた記憶があります。給食が大嫌い。食べることが好きじゃなくなったのもこの頃からだな。ご飯の時間が苦痛になっていきました。
 
そして、同時に扁桃腺炎も悪化。よにいうアレルギーマーチの開幕です。毎月のように40度以上の高熱を出し、痙攣。病院へ駆け込む日々。体も小さくて細っこくて・・・

ちびさくらちゃん
ちびかなみちゃん

え、かなみちゃん、細かったの・・・(疑いの目)

10代後半からはダイエットを繰り返す日々になったのですが、当時は標準体重、身長うにはとても満たない、小さくて痩せこけた子供でした。それが野菜を食べないせいだ!と周りから責められた母は、わたしに一生懸命野菜を食べさせようとしたのですが、何せ粉ミルクすら飲まない頑固者。野菜嫌いを克服できないまま、10代を過ごすことになりました。

これはつい最近知ったのですが、

野菜の苦味には、カラダの中のアクを取る作用が含まれているんだそう。年配になると苦味の強い野菜が食べたくなるのは、カラダの中に溜まったあくを排出しようとする自然の摂理なんだそうです。反対に子供の体にはまだアクが少なくて、排出する必要があまりない。体が必要としていないんだよ。という話を伺ってちょっと納得。 幼少期に食べられなかったものは一つを除いて、今は全て克服しています。どうしてもダメなのは生の大きなトマト。あれだけは、幾つになってもやっぱり苦手なママです。

給食大嫌い!食べるの嫌い!喘息発症の小学生時代

幼稚園時代から、ずっと給食は最後まで食べてました。何なら、小学生の5時間目も食べさせられていたくらいです。学校の好きなところはどこですか?との答えで「給食」と答えている人がいることにびっくり。ありえなーいといつも思っていました。

さくら
かなみ

みんながお掃除してる埃の中、一人吐き気を催しながら食べる給食。自分の子供には絶対にこんな思いをさせないぞ。と母になってから誓いました。
子供たちも好き嫌いはありましたが、強要せずに見守ることにしました。



そんな中、扁桃腺除去の手術を受けることになります。小学生になり、1ヶ月に毎月10日ほど熱によって学校を休んでいたため、お医者さんから扁桃腺の除去を勧められました。

忘れもしない1年生の夏休み。入院して一晩中泣き続けて除去した結果。
小児喘息を発症しました。それからは喘息との戦いの日々。小学校の野外学習と修学旅行も学校側から「やめてもらえませんか?」と言われるほどの状態でした。(ここは母が頑張って、何かあっても学校の責任は問わないので、いかせてください!と直談判し、無事に参加することができました。)


小児喘息は体が大きくなると同時に、徐々に寛解に向かっていきます。中学生、高校生時代は何とか健康に日々を過ごしていけるようになりました。

ところが・・・。

アレルギーマーチ最終章 顔面にアトピー発生の思春期

ついにやってきました。18歳。高校も卒業式間近。顔面にアトピーが発生しました。その頃は環境が変わることに対するストレス、思春期の親との確執などで、どんどん顔に広がっていきました。

さくら
かなみ

短大に入ってアルバイトの面接に行くたびに、顔のアトピーが気になって。面接、めちゃくちゃ落ちました。今思えば、アトピーが原因でないことは想像できるんですけどね。



お化粧もできず、自己肯定感もダダ下がり。自信がどんどんなくなっていきました。薬を飲んでもつけても全然治らず。どうしたらアトピーが良くなるのか?と俯く日々が変わったのは、アルバイトを始めたからでした。

顔に出てたアトピーは少しづつ治まっていきましたが、肘裏、膝裏のアトピーは相変わらず、出続けるまま。ステロイド入りの軟膏はお守りのようにいつも持ち歩く日々がこの後10年以上続きます。

就職 肘裏のアトピーで制服が血まみれに!

制服のある会社に就職して9年間。長袖の白い制服の肘の内側はいつも血で汚れていました。毎日持ち帰り、洗濯をする日々。ストレスと、激務で治る気配もなく、結婚までの日々を過ごします。

しかもですよ。小児喘息経験者。アトピー持ちなのにです。この頃のわたしはヘビースモーカーでした。タバコとコーヒーだけで1日を過ごすこともザラ。不健康のお手本のような生活を繰り返してました。

ちびさくらちゃん
ちびかなみちゃん

それ、絶対ダメなやつーーー!



就職してから9年間の間に、尿路結石・急性腸炎で2回ぶっ倒れました。両方とも1週間以上強制休業。腸炎の時は、1週間で5キロ以上やせて、食事が取れない日々でした。その頃から、少しづつ、健康に対して考えなくちゃいけないな。と感じるようになっていきます。

ちょうど、この頃、野菜嫌いの克服のきっかけとなる出来事が起こります。取引先の社長さまとの会食で、出てきたサラダ玉ねぎのサラダ。絶対に、死んでも食べたくない!と思っていたサラダ玉ねぎは感動の味でした。あれ、わたし、この玉ねぎなら食べられる!お店の大将に、今まで玉ねぎが大嫌いだったこと。この玉ねぎはめちゃくちゃ美味しくて、食べられたことが嬉しかったこと。をお伝えして、作り方を教えていただきました。

もうね、それから毎日サラダ玉ねぎを食べまくりました。それから少しづつ、お野菜が食べられるようになったんですね。
 
それに相反して、アトピーはというと悪化。新店舗への移動が決まり、シックハウスの症状も出て、状態は一進一退を繰り返していました。

アトピーの転機が訪れたのは、会社を退職して結婚。田舎へと転居してからのことです。

結婚・出産・最大規模のアトピー勃発

結婚後も、野菜嫌いの偏食は続いていましたが、都会から田舎へ引っ越したことで、新鮮で味のあるお野菜をいただく機会が増えました。ちょっとずつ、野菜嫌いも克服しながら、第一子を出産。長女が誕生します。長女を妊娠し、妊娠検査薬で調べると同時に、手元にあったタバコとライターを全てゴミ箱へ捨てました。
 

自分がアトピーで辛かったから。子供には絶対同じ思いをさせたくない。

10年間に及ぶ喫煙生活に別れを告げた瞬間です。

ちびさくらちゃん
ちびかなみちゃん
 

あれ?年数ちょっとおかしくないか?

さくら
かなみ


 

え・・・・そ・そんなことないよ。

長女の出産から2年後に、稽留流産を経験します。この時から、わたしは自分の体についてより真剣に向き合うようになりました。原因がわからない。と言われているけど、わたしが食べたもの、生活、何かが悪かったのでは・・・。とドツボにハマっていきます。そして、第2子となる長男の妊娠中から、産前鬱も重なり、食べることにストイックになっていきました。牛乳、卵、は全てやめ、塩・調味料なども化学と名のつくものが入っているものを、食卓から排除しました。それでも、妊娠後期には絶対安静で張り止めを飲む日々。そんなある日、手に小さな痒くてたまらない水疱ができているのを発見しました。これが人生最大のアトピー、手湿疹との戦いの始まりでした。

2年続いた手湿疹との戦い!

同時に産後うつも発生し、もう1年間はほぼ記憶にありません。覚えているのは、日々手に湧き上がる痒くて痛い水疱の数々。水疱は時にかたまり、象の手のようになっていました。水を触っても熱く感じるほどの重度の湿疹。母乳で育児をしていたので、ステロイドの薬を飲むことも躊躇われました。
(ただ、最もひどい時は、母乳での育児を一旦中止し、ステロイドの飲み薬を1週間ほど飲みました。)
ステロイドの薬のついた手で息子を触りたくない。でも手の湿疹は痒くて気になる。もう負のスパイラルの突入です。
白い綿の手袋をして、娘の保育園の入園式の写真に写る姿。

今は寛解していますが、疲れたり、汗をかいたり、手に強い刺激があると湿疹は出てくるので、ゴム手袋は必須アイテムです。

健康とは、食べること・寝ること・暮らすことなのかもしれない

今でもかなり気を遣って生活している方だと思います。

産後うつと手湿疹の頃は、漢方薬にもお世話になりましたが、今はお薬は手放しています。
 
体調が悪くなるとやっぱりアトピーが出たりはしますが、気になるほどではありません。

そして最近50年近く悩んできた、便秘から解き放たれました。幼稚園の頃から、便秘の腹痛に悩まされ続けたのがまるで嘘みたいに、毎日するりとうんちが出ています。
 
これらの状態になるまでに、取り入れたり、試行錯誤したことは、多分100や200通りではありません。
効果があったものもあるし、なかったものもある。すぐに結果に繋がらないけど、続けた事、自分の体を愛でるように試しながら、進んできたことで、齢50になって、やっと健康と言える体が手に入ったのかもしれません。

今まで試してきたことや、今も続けていること。こんなのやってみたよ。の完全主観をこのブログではシェアしていきます。効果を保証するものではなく、完全に主観であることをご理解の上、少しでも暮らしが楽しくなると嬉しいな。

ではでは。

かなみでした。

 

 

コメント

  1. […] […]

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